修行
ある人に、「人間は今世に生まれ変わる前に、来世はこれこれこういう修行をしようと自分でプログラミングして、親を決め、生まれる日も自分で決めて生まれてくる。」と聞いた。
昔からなんで自分の人生はこんなに波乱万丈なんだろうと思ってきたが、自分でプログラミングしたんじゃしょうがないなとその言葉がストンと腑に落ちた。
それにしてもしんどい人生だったなぁと思う。主人や子供たちも大変だったと思う。これからの人生は、あと何年生きられるかわからないが、人救けだけをしていきたい。精神保健福祉士としての経験を積み、やがて来るであろう大災害が起こった時には医療チームの一員として被災地に入り、被災者の心に寄り添いたい。伊豆の地に精神障害者の居場所やグループホームも作りたい。やりたいことはまだまだたくさんあるけれど、それらを実現させるためにクリアしなければならない問題も山積している。大変そうだがやりがいがありそうだ。日本は、その中でも特に田舎は、欧米と比べるとまだまだ精神障害者への偏見や差別が根強く、社会的入院(医療上は入院治療の必要性が低いものの、社会福祉制度やサービスの不足や支援体制の不備、差別や偏見等により、退院して地域生活を送ることができずに、入院を続けざるを得ない状態)者の地域移行への取り組みが大きな課題となっている。精神障害や精神医療に対する偏見を是正し、精神保健福祉の普及啓発を進め、空き家や耕作放棄地がたくさんある自然豊かなこの地域に、障害があってもなくてもそれぞれが自分らしく生きられる町を作ることを目指したい。
転機
2008年3月下旬に家族5人で伊豆へ越してきた。あの頃の私は、何かに憑依でもされているかのように身体がずしッと重いうえに思考が働かず、寝ても寝ても眠くて1日中ベッドの中にいた。トイレとたま~にお風呂に入る(気力がある時)以外は部屋から出なかった。いや、出られなかった。ベッドで横になっていても窓の外に緑の木々が見え、風が吹くたびゆらゆら揺れる。小鳥たちが枝にとまりさえずり、近くの川のせせらぎが聞こえ、この地の豊かな自然にとても心癒された。人工のものではなく神様がお創りくださった自然の力の中にどっぷりと浸かり、良くなったり悪くなったりしながら少しずつ緩やかに回復していった。
「あぁ、私このままでいいんだ。生きてていいんだ。」と思えるようになるまで8年かかった。
病状が落ち着いてきた2015年頃、自分の病んだ経験を同じような病を抱えて苦しんでいる人たちの役に立たせたいと思うようになり、かねてからお世話になっていた子どもたちの小学校のスクールカウンセラーの先生に相談した。そして、精神保健福祉士を目指されてはどうですかとご助言いただいた。それから、ネットで精神保健福祉士について調べ、学校を探し、2016年4月から日本福祉大学で学んだ。大学を5年かかって卒業し、高崎福祉医療カレッジで国家資格を取得するための勉強を重ね、2021年3月に何とかギリギリの成績で精神保健福祉士国家資格を取得することができた。
学費を稼ぐためにパートにも出るようになった。病状が落ち着いたと言っても治癒したわけではなく、薬を服用しながらの勤務で、ミスが多かったり突然体調を崩して欠勤したりすることが健常者より多いので、なかなか長続きしなかったが、不思議とすぐ次の仕事がみつかりありがたかった。銀行の教育ローンも来月には返済し終わる。
主人
全く好みのタイプではなかった主人だが、中身はとても優しくて愛情深く、私が病気になってから教会の御用、家事、子育てと全てをきりもりしてくれた。普通なら奥さんが精神の疾患にかかったら、離婚され、子供も父親に取られ、孤独に暮らすケースが多いのに、主人は私がどんなに酷い状態になっても見放すことなく支えてくれた。
そんな主人や子供たちに対して何もできないことが申し訳なくて、私の方から主人に離婚を切り出した。メールで「あなたはもっと健康な人と再婚しほうが幸せになれる。子供たちも今なら私のことは忘れて新しいお母さんになつくから、別れてください。」と。主人からの返事は「子供たちにとっては、お前は世界でたった1人のお母さんなんだよ。俺にとってもお前は世界でたった1人の女房だ。何もしなくていい。寝ててもいい。いるだけでいいんだよ。」だった。涙がとまらなかった。こんなに暖かい言葉をかけてもらったのは生まれて初めてだった。
それからも何度も自殺未遂、入退院を繰り返したが、家族みなで支えてくれた。
もし、主人と私が逆の立場だったら、あんなに深い愛情で夫を支えることができただろうか。否、私にはできないであろう。そう考えると主人はすごい人だ。こんな私を丸ごと抱えて22年も連れ添ってくれて。もう感謝しかない。
息子
女、女と続いて待望の男の子を授かった。三人目だから楽勝と思っていたら違った。男の子だから外で走り回って野球やサッカーなどのスポーツマンになってもらいたかったが、お姉ちゃん2人がお絵描きが得意で、息子も外で遊ぶより1人でお絵描きするのが好きだった。小学校に入ると息子の宿題を見るのが苦痛になっていった。姉2人はちゃんと順番通りに問題を解いてくれていたので、宿題もスムーズに終わった。しかし息子は違った。順番通りではなくあっちの問題をやったり、こっちの問題をやったりとなかなか前に進まない。私はイライラしてきて順番にやるんだと説明しても息子は言うことを聞かない。これ以上宿題の度にイライラするのは嫌だったので、主人に頼んだ。主人はイライラすることなく、男同士上手くやってくれた。
娘は同性であるし、何となく考えていることが読めたが、息子は何を考えているのかわからなかった。小さくても男なんだ、男の考えていることは永遠に女にはわからないのだろうと息子のことは主人に任せた。
それでも小学校5年生までは寝る前のチュウをしてくれたが、突然嫌がるようになり、頬に無理やりしていた。それも中学生になるとなくなった。日本では思春期だから仕方がないというけれど、海外ではスキンシップは当たり前。日本も当たり前のようにキスする文化があればいいのにと思う。
息子は3人の子どもの中で一番愛情不足だ。物心つく頃はもうすでに私が病んでいて、別々に寝ていた。小中学校の頃は、何度もODをして入退院を繰り返していた。受験の年の10月に家を出て主人と別居した。翌年6月には自宅に戻ったが、息子には寂しい思い、不安な思いをたくさんさせて本当に申し訳なかったと思っている。
次女
次女は、生まれた時から全く手のかからない子だった。ベビーベッドに1人寝かせて神殿に朝の祈りに行って帰ってくると、いつも1人で目覚めておとなしくしていた。夜も気が付くといつの間にか寝ていて、長女も次女も夜泣きをしたことがなかった。私が病んでいるから神様やご先祖様が子どものおもりをしてくれていたのだと思う。
幼少期は、姉の行動や私の顔色をよく見て私に怒られないようにしていた。私も次女を怒った記憶があまりない。そんな子だから4歳の時、「ねえねは、嬉し泣きだよ。」と姉の気持ちがわかったのだと思う。なんでもおねえちゃんの真似をしたがり、ご飯を1人で食べられるようになったのも、歯を磨けるようになったのも、おむつが取れたのもお着替えができるようになったのも、3人姉弟の中で一番早かった。そのせいか、今が一番手がかかる。ずっと甘えさせてあげられなかった分、手を出すのではなく心をかけるようにしている。自分の気持ちをうまく言葉にできないところがあり、打たれ弱い。心を病んだ母を持ち、人を思いやる人間に育ってくれた反面、ひとの顔色を常に気にして本当の自分を出すと嫌われるのではないかと周りに心を開くのにとても時間がかかり、本音がなかなか言えず、相手に振り回されることの繰り返し。幼少期に母親の愛情を十分受けられなかったことが原因と考えられるので、次女がありのままの自分を愛せるようになるまで、愛情をかけ続けるつもりだ。
プチ不登校
長女が小学校1年生の夏休み明け、「学校行きたくない。」と言い出した。
主人も私も本人が行く気になるまで見守ることにした。
不登校が始まって1週間が経ち、教会の信者さんでもある学校の先生から呼び出しの電話があり、3人で先生のお宅へ伺った。先生から、「お母さん、不登校は1週間を過ぎると長引きますよ。」と言われた。そして娘に、「お母さんと一緒なら学校来れるか?」と優しく問いかけると、「うん。お母さんと一緒なら学校行ける。」と娘は答えた。
次の日から、娘との通学が始まった。うつが治ったわけではなく、重たい身体を引きずるように通った。初日は、授業中教室の後ろに立っているのがしんどくて、先生から使っていない椅子を借りて娘を見守った。小学1年生の授業は懐かしく、国語の「スイミー」などは私も習ったなぁと遠い昔の記憶が蘇った。担任の先生から、「トイレに行く時は、娘さんに声をかけてから行ってくださいね。黙っていなくなると娘さんが不安になるので。」と言われ、実行した。給食の時間は、隣の準備室で持っていったおにぎりを食べてから、机に伏せて休んだ。午前中ずっと椅子に座っているのもうつの私にはきつかった。初めの頃娘は授業中度々後ろを向いて私がいるのを確認し、目と目が合うと可愛い三日月お目目でニッコリ。私もとびきりの笑顔で微笑み返す。すると安心してまた授業を受ける。娘が前を向いている時は、恐らく私はとても険しい顔をしていたのだろう。休み時間に先生が、「お母さん、大丈夫ですか。」と度々声をかけて下さった。
そのうち、後ろを振り向く回数がだんだん減り、先生が今日はもう帰っても大丈夫と判断した時は、手で私の方にOKサインを出してくださるようになり、娘に気づかれないようにそーっと帰れるようになり、少しずつ私がいなくても平気でいられる時間が増え、最終的には通常通り通学できるようになった。今では貴重な長女との思い出である。
気付き
精神科クリニックに通うようになりイライラは治まったが、だんだん抑うつ状態となり不登校ならぬ「不炊事場」。炊事場に怖くて行けなくなった。主人が私の手を引いて炊事場へ連れて行こうとしたが、途中で足がピタッと止まり動かなくなった。動けなくなった。そのうち神殿にも行けなくなり、部屋の外にも出られなくなった。横になっていても教会の敷地内で作業をする人たちの音や声が聞こえてきて、「みんな働いているのに私は何もできない。」と自分を責めていた。教会に住まわせて頂いているのだから、私も何かさせてもらわなければと思っていても、人に会いたくない。でも、何かしなくてはと考えていたところ、教会のお墓地の草取りをしようと思い付いた。お墓地なら普段は誰も来ないからだ。何かが憑依しているのではないかというくらい身体がだるくて重くすぐ疲れてしまうので、初めは15分位しかできなかったが、毎日通ううちに1時間半位まで出来るようになった。雨の次の日はすぽすぽ根っこから抜けて、楽しいと思えるようになった。
そんなある日、フッと「お墓地に眠っている御霊様方のお陰で今の自分たちがいるんだなぁ。」と思えた。そう思えた途端に長女のことが可愛いと思えるようになった。家に帰り、長女を膝の上に乗せて「今までお母さん、怒ってばかりでごめんね。」と謝った。すると長女は私にしがみついて「わー‼」っと大声で泣いた。私も4年ぶりに長女をギュッと抱きしめ、「ごめんね。ごめんね。」と一緒に泣いた。それを横で見ていた4歳の次女が、「お母さん、ねえねは嬉し泣きだよ。」と言ったのだ。子供とはよく見ているものだなと驚いた。
次の日から長女の私に対する試し行動が始まった。座っている私の背中を殴ったり蹴ったり。身体のあちこちに大きな青あざができた。でも、私は何も言わずひたすら耐えた。娘の気の済むまでやらせた。もちろん痛かったが、娘の心はもっともっと痛かったことだろう。心の底から申し訳なかったという思いで一杯になった。長女が6歳の時のことである。大きくなってから当時のことを覚えているか聞いてみると、なんでかわからないけど、お母さんを蹴っていたのは覚えていると言っていた。次女は全く覚えていなかった。試し行動がどのくらいの期間続いていたのかは私も覚えていない。