精神障害とともに

 プロローグ

 私が精神疾患を発症したのは、2007年頃である。2000年12月に結婚し、環境がガラリと変わり次々と子供が授かるなか、義父のセクハラにひたすら耐え、鬱とADHDの義妹の面倒と子育てとで私の心はキャパオーバー。ある時からイライラが納まらなくなり鬱状態から鬱へ。何もできなくなった。顔も洗えない。歯も磨けない。着替えられない。お風呂も入れない。トイレだけは行けた。テレビは何を見ても何も感じない。食事は3食食べていたが1ヶ月で7㎏体重が落ち、人間ドックへ。もちろん異常は無かった。2008年3月に伊豆へ家族5人で越してきた。こちらの病院で躁うつ病と診断された。

 伊豆はいい。自然豊かで水も空気もおいしい。どの窓からも風に揺れる木の葉が見え、川のせせらぎと小鳥のさえずりが毎日聞こえる。夏には蝉やカエルが、秋には鈴虫が大合唱。昼間猿に出くわしたり、夜道を鹿に遭遇したり、夜中に猪の足音も。大自然の人を癒す力は偉大だ。その大自然を創った神様はもっと偉大だ。この偉大な自然にどれだけ心癒されたことか。病気になったおかげであたりまえに感謝できる自分になれた。あるがままの自分を受け入れることができた。自分をほめてあげることができるようになった。人生無駄なことなどないのだと今改めて思う。

生い立ち

 私は1968年の冬、ある貧しい教会の6人兄弟姉妹の長女として生まれた。父は北海道出身、母は川越出身で、天理の学校で知り合い結婚。父が婿養子に入った。父は子煩悩でよく手品を見せてくれたり、夜寝る前に怖い話をしてくれた。足で押し入れの襖をガタガタさせて臨場感たっぷりに怖がらせてくれた。母は元来子供があまり好きではない人間のようで、想定外に6人も子供が授かりいつも怒っていた。母の笑顔は記憶に無い。褒められた記憶も無い。幼い頃、「私は本当にこの家の子かな。」と思った。捨てられる夢もよく見た。泣きながら「お母さん!」と目覚めることも度々。枕はしょっちゅう涙で濡れていた。それほどいつも大人同士が喧嘩をしている冷たい家庭だった。身体的虐待はなかったけれど、今思えば言葉の暴力による心理的虐待と言えるほどカミソリのような人の心を傷つける言葉の嵐の中で育った。ただ救いだったのは、5人姉妹、仲が良かったということだ。弟はたった1人の跡取り息子で、両親も祖父母も特別扱いをしているように感じてやきもちからよく意地悪をした。妹たちとは普段のたわいのないおしゃべり、トランプや花札や手遊び、すぐ下の妹とは、近所の男の子たちと公園で庭球やめんこ、かくれんぼや鬼ごっこもよくした。大晦日の晩は、3姉妹2階の炬燵でみかんを食べながら紅白、行く年くる年を観て、0時になったら下へ降りていって両親に「明けましておめでとうございます。」と新年の挨拶をするのが毎年恒例だった。(弟妹たちは紅白が始まる前に床についていた。)お正月にはカルタ、凧揚げ、羽根つき。楽しかったな。

病気発症

 ずっと兄弟姉妹は近くでいつでも会える存在でいるものとどこかで思っていた。でも、少し遠くへ嫁いだ私は実の兄弟姉妹との関係より義妹弟との関係や主人の所属する教会の人たちとの関係を新たに築いていかねばならず、それが私の中でとても苦痛になっていった。子育てをしながらの団体生活や義父からのセクハラ。そして鬱病ADHDを抱える義妹の面倒をみているうちにイライラが納まらなくなり私は壊れた。